名前を呼ばれて振り返ると、聡が笑いながら立っていた。
ヨレヨレのTシャツに着古したジーパン。頬に落ちる一筋の黒髪が揺れている。だが、美鶴は風を感じない。
聡はポケットに突っ込んでいた右手を出して軽く振った。呼んでいるようだ。だから美鶴は、ゆっくりと歩き出した。
だが、近づくと聡は姿を消した。まるで霧の中に吸い込まれるようにその姿を消した。
美鶴は差し出した右手を胸の高さで宙ぶらりんにさせたまま、呆気にとられている。ふと見ると、今度は左で聡が呼んでいる。だが、何を言っているのかは、わからない。
わからない
楽しそうに笑う。と、後ろから声がする。
振り返ると、山脇が笑っている。二重の目をクリクリさせて、でも少し細めながら口元を緩めている。少し首を傾げると、サラリとした黒髪が揺れた。ゆっくりと開いた口が、何かを告げている。
だが、美鶴にはわからない。
声は… 音は聞こえているはずなのに、なぜだかその意味を理解することができない。まるで、ラジオから流れ出る雑音を聞いているかのようだ。
わからない
なにも、わからない
戸惑っていると、やがてまた背後に気配を感じた。振り返って、絶句した。
「里奈」
懐かしい中学の制服に身を包んだ、見た目も可憐な美しい少女。腰まで伸びた髪の毛は緩くウェーブさせ、両側とも耳の上で止めている。
濡れたような艶やかな唇。適度に日焼けした頬。犬のような愛くるしい黒目が水面のように大きく揺れた。まっすぐに向けられた視線には強い意思のようなものを感じる。
里奈は、何を考えているのだろうか?
………
今度は、自分に言葉を失う。
里奈が何を考えているかなど、知りたいとも思わなかった。思わなかったはずだ。
話を聞こうとは思わなかった。聞きたくなかった。知りたくなかった。
里奈が何を考えているのか。
美鶴にはわからない。
わからない。誰が何を考えているのか? 誰の言葉が正しくて、何が間違っているのか?
私にはわからない。誰の心内も、私にはわからない。
だから、誰も信用できない。
一歩前へ出た途端、里奈の姿は霧の中へ消えていった。姿の薄らいでいく里奈の表情は、少し寂しげでもあった。
少し離れたところで、山脇が笑っている。そちらへ足を踏み出すと、やっぱり山脇は消えてしまう。別の場所に聡の姿が、澤村の姿もある。
なに?
美鶴はぐるりと見渡した。
ここはどこ?
よく見ると、辺り一面が濃い霧にでも覆われているかのように、モヤモヤとしている。立っている感覚はあるのに、足元を見ても地面も床も見えない。
見えない
気がつくと、足元から何かが舞い上がった。
……… 白い粉
笑い声と共に呼ばれる。呼びかけようと口を開ける。途端に冷たい空気が流れ込み、息苦しい。声が出ない。笑い声が辺りに響く。周囲を見渡す。
白い細かな粒子が纏わりつくように周囲を舞う。
まるで、踊っているかのようだ。
笑い声が聞こえる。
私には秦鏡などない。だから、何もわからない。
誰が正しくて、何が間違っているかも…
だから、何も信用できない。
「秦鏡なんて、誰も持っていないんだ」
美鶴はブルリと身を震わせた。ようやくして、夢であったことに気づかされる。
夢…
ヘンな夢
額に人差し指を当てようとして、後ろ手に縛られていることに気がつく。足首も縛られている。
体を捻って目を凝らすと、タオルを巻かれた上からビニール紐のようなもので縛られていた。
目を凝らすと…
………
ここは、暗い。
手首にもタオルの感触がある。口にもタオルが詰め込まれて取れないように縛られているらしい。
息が苦しい。
冷たい床。コンクリートだろうか。辺りは暗い。だが必死で見渡すとやがて目も慣れてきた。
ここは…
見慣れたパネルが壁を飾っている。
あの駅舎。
どういうこと?
グルグルと考えを巡らせているところへ、男の声が聞こえてきた。
「ったく、お前のドジにはほとほと呆れるぜ。だからあの女にも死なれちまうんだよっ!」
一人の罵声に、もう一人が情けない声で詫びている。乱れた足音が近づいてきて、美鶴は身を硬くした。突然人影が美鶴の顔の前で足を止める。そのまま微動だにしない。
慣れてきたばかりの視界の中で、男と視線がぶつかる。
――――っ!
「ひっ!」
男は大袈裟な声をあげてよろめいた。
「どしたっ!」
もう一人が近寄って美鶴を見下ろす。美鶴は、余りの驚きに瞳を閉じることもできない。
その姿を見て、後から来た男は舌を打つ。
「ちっ! もう起きやがったのか」
だが、大して悔しそうでもない。床に膝をついて美鶴の顔を覗き込むと、掌で軽く美鶴の頬を叩いた。
「かわぇーそーに。寝てれば苦しまずに済むものをよ」
そう言って立ち上がると、視界から姿を消した。
美鶴は手足を縛られて駅舎の床に寝かされている。身を捩れば動くこともできようが、今は驚きのあまり何をすればいいのかわからない。
だいたい、何がどうなっているのか
後ろの方で押し殺したような、掠れた罵声がする。
「何やってんだよっ!」
その言葉に、もう一人が弾かれたように身を震わせると、やはり視界から消えた。
間違いない。
あの緩慢な動きと挙動不審な態度。見るからに気の小さそうな男は、数学の門浦だ。
だが、もう一人、どうやら門浦にあれこれ指示を出しているような男。頬を叩いた男を、美鶴は知らない。
っ! 帰り道に私を襲った男?
そう思いついた瞬間、背後から抱き起こされた。抗う間もなく上半身を起こされ何事かと振り返ろうとするところを、首になにか巻かれた。
紐? ロープ?
――――っ!
首を上に引っ張られ、美鶴は夢中で立ち上がる。だが、さらに上へ。
爪先立ちになってもさらに上から引っ張られ、首にひっかかったものを外そうと、美鶴は必死に頭を振った。だが、その間にも上からの力はその強さを増す。
ついに、足が床から離れて宙吊りになる。
――――っ!
喉骨が押さえつけられ、それが気管支を遮る。
苦しいっ!
急激な息苦しさに美鶴は双眸を見開いた。涙が溢れ、視界が霞む。
殺されるっ!
思った途端、突然再び足に床の感覚が甦る。美鶴は必死に足で地を踏んだ。
逞しい両手が美鶴を背後から抱きかかえ、首に巻きついていたものを外す。口からタオルを抜き取った。多量の空気が入り込んで噎せる。
まだ続く息苦しさと首にかかった衝撃の痛みで頭に重みを感じ、立っていることができない。
そんな美鶴の身体を二本の腕がしっかり抱きとめる。崩れ落ちるように座り込む美鶴を胸に抱え、自らも膝をつく。
激しい罵声と痛そうな衝撃音。ぼんやりとしながら振り返る先で、長い足が一人の腹に食い込むのが見える。
蹴りあげられて男はあっけなく吹っ飛ばされ、身体を壁に打ち付けて崩れ落ちた。少し離れたとこでは、別の男が仰向けに倒れている。ぴくりとも動かない。
「おいっ! 自分、何やってんのかわかってんだろーなぁ? えぇっ?」
壁に打ち付けられた男は、怒気を帯びた声色に身を震わせた。蹴り上げた男はゆっくりと歩み寄る。そうして、腰を抜かす相手の首元を掴みあげると、その鳩尾に一発入れた。
うげぇと醜い悲鳴をあげて男の身体がピクピクと震える。だが構わずもう一発。
「やめろっ 殺す気か」
美鶴の頭上で少し焦った声がする。同時にパチンと金属音。
振り仰ぐと、山脇が携帯をポケットに仕舞うところ。
「警察に連絡した。あまり度が過ぎると君まで連れて行かれるぞ」
山脇に咎められ、聡は動きを止める。掴んでいた門浦の襟元を放り投げた。
すでに半分気を失っているらしく、門浦は人形のように床に転がる。それを見て、美鶴は大きく息を吸った。
山脇が少し腕の力を強める。
「大丈夫?」
問いかけに応じ、そのままガックリと項垂れる。聡の足音がゆっくりと近づく。
「大丈夫か?」
美鶴は、そちらを見れなかった。
ただ小さく頷くのが精一杯だった。
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